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洋画家 田邊翠 ( Kie-Ko)
洋画家 田邊翠 ( Kie-Ko)

洋画家 田邊 翠は どんなひと??? 小学校一年生の時、朝礼で校長先生に名前を呼ばれ何か悪いことしたのかとビビったら、そうではなく絵の公募展に両親が勝手に応募した絵が賞を頂き、校長先生から賞状を渡された、これが一番初めの受賞。それからは学校の展覧会で金賞の連続!絵が日本の子供の代表で海外の子供の絵と交換されたり・・・ 小学四年生で油絵をはじめ、しばらく夢中だったが、油絵の後片付けが嫌いだった。 20歳のころは幼稚園で絵の先生をしていた。 文化学院の日曜美術科に入り、青山のデザイン学校にも入学したが校内のコンクールで優勝、主席となったがつまらないので辞めてしまった。 それからは宝飾の加工に夢中になり、3日に2個の作品を作り続け、ジョージ・ジェンセンやベルギーのWolfers社と契約しベルギーにしばらく滞在し、古くから伝えられた技法を学び丹下健三夫人、鳩山元総理夫人、シュガーレデイの創立者夫人などの宝飾品を作成。 父譲りの料理好きが高じて 1993年 西麻布に、美味しいものを食べながら良い音楽を聴く店をオープン 三年目に初めてインドへ行き、色の美しさと人間の姿の美しさに感動し、インドの絵を描き始め、お茶の水のギャラリーで初めて個展開催 西麻布の店のお客様が皆さんいらしてくださったこともあり、出品した作品28点、全て完売し画商さんもビックリ! 本人もビックリ! 自分の絵に対する世の中の評価を知りたくて、1997年に美術協会の公募展に出品、東京都美術館に出品した作品三点が全部入選し、翌年から3年間続けて入賞し、会場が新国立美術館に移ってから東京都議会議長賞を受賞 2013年、東北の大震災の頃、超高層ビルに囲まれた西麻布の店のあたりの淀んだ空気と、西麻布のネズミの被害に嫌気がさし、苗場に持っていた山荘の空気の良さに、何か仕事があったら、ここに住みたいと思うようになり、夏休みに山荘に訪ねて来られた猿ヶ京温泉出身のお客様から「猿ヶ京は関越道と新幹線の影響ですっかり寂れてしまった。音楽で元気にしてほしい」と言われ、西麻布から逃げ出したい一心で、軽はずみに OK してしまい20年間多くのお客様に愛された西麻布の店をたたみ、猿ヶ京温泉のとんがり屋根の空き家へ引っ越してしまったのでした。 こんな静かなところとは夢にも思わず、大苦戦しつつ、気が付けば10年~~~ インドカレー、タイのグリーンカレーは観光客や、外国人の方々に絶賛され、その都度、これで良いのだとやる気満々ではありますが~~~??? 東京では1か月に3枚は売れていた絵を展示して、お食事が出来るまで楽しんでいただこうと絵の展示も始めました。 時々お求めくださる方がいらしたら嬉しいです。 私の父方の祖父は、洋画家の田辺至 芸大の名誉教授。師匠は黒田清輝 昔の帝展(現在の日展)で特選を取り、審査委員長を数年務めた時期もあり、二科展、鎌倉の近代美術館の創立メンバー 祖父の兄は哲学者の田辺元 文化勲章受章者 京都大学名誉教授 歌人の野上弥生子との恋文の交換が本になり出版されている。 曾祖父、田辺新之助は、逗子開成中学、鎌倉女学院の創立者 逗子開成の子供たちが休みの日に漁師の船を勝手に漕ぎ出し、大波で転覆し大勢の死亡者を出し、その保証を支払った新之助は、大変貧乏となった。 その事故の時、鎌倉女学院の女子が歌った歌「真白き富士のね」が後の音楽の教科書にのるようになり、みんなが知っている歌なのに何故か私は聴いたことが無いのです。 私の母方の祖父は岡山で3代続いた医者の家系の次男 額田晋 兄 豊と二人そろって、東大を主席で卒業し、恩師の時計という置時計を持っていた。 兄と二人で東邦大学の前身「帝国女子医専」を創立 後に駒場東邦中学、高校を創立 ・・・とまあ、学校ばかり作るご先祖様たちでした。 ある日、祖父に何故そんなに学校ばかり作るのかと訊いたところ、昔は学校が少なかったから簡単だったということでした。 父と母は、そんな両親を持つ、不良息子と不良娘で、父はフィギュアスケートの国体選手の補欠、母は医者との結婚をすすめる両親に反抗し、絵を描き、ピアノを弾き、遊び暮らしていたようで、そんなに絵を描きたいならと、親が決めた画家の息子で芸大出の父と無理やり結婚させられたと文句言いつつ、子供3人持ったのです。 私は、父譲りで美味しいものが大好き、音楽が好き、美しいものが好き、なにが起ころうとヘッチャラ~~~で、猿ヶ京で10年経ちました。 宜しくお願い致します。